勝谷さんが亡くなりました。会社のホームページ担当者からその日に「勝谷さんと親しかったのは皆さんご存知ですから、コメントを出しますか?」という問いがありました。「残念で、混乱してて、何も書けない」と、返しました。それ以外に言いようがなかったんです。

葬儀は日程上、無理だったので、その日のお通夜に都合をつけて行きました。阪神尼崎の駅から葬儀会場への小雨交じりの暗い夜道を歩きながら、「この道、間違ってんじゃないか。もし会場に行きつかなかったら『実は亡くなったのは嘘だった』ということにならないかな。そうならないかなぁ。」と思いながら歩きました。最近はお通夜も礼服着用が一般的ですが、どうしても黒い服を着る気にならなくて普通の背広を着ていきました。


勝谷さんと初めて会ったのは20年前。月刊誌の中で「日本蔵蔵(くらくら)紀行」という全国各地の酒蔵を訪ねるページを勝谷さんが連載していて、その取材で声をかけて頂いたのが最初です。その頃の山口県の酒の評価は県内でも最低で、「山口県にまともな地酒なんかないだろう」と思われていた時代です。うれしかったですね。

「もう一軒、県内でどこか紹介してよ」という事で紹介した「東洋美人」(澄川酒造)を取材した後、山陰本線・美祢線・山陽本線・岩徳線とJRを乗り継いで現れた勝谷さんは米軍放出のカーキ色のパーカーに色眼鏡 (とてもサングラスとかには、見えない) をかけた、一見危なそうな人でした。

文芸春秋を辞めて、一匹狼になって間もないころの勝谷さんと、精々600石・金額で言えば今の70分の1の売り上げで、過剰設備投資に分不相応な高価な原材料、利益なんて出ない、何より怖いのは銀行の融資担当者、という酒蔵の主人との初めての出会いでした。

この時に勝谷さんから「地元で獺祭の飲める所へ連れてって」と言われて連れて行ったのが焼肉屋!! 後々まで、「獺祭に行ったら、純米大吟醸をセンマイで飲まされた」とからかわれる取材でした。

そんな情けない蔵元にも、勝谷さんは気にかけて、時々、声をかけてくれました。

よく知られている、「杜氏に逃げられ、社員だけの酒造り」のきっかけとなった地ビールレストラン失敗の時も、「こういう町おこしの感覚でやる事業は危ないよ」「周囲のおだてに乗っちゃいけない」といち早く警告してくれました。もちろん、警告にもかかわらず強行した地酒の蔵元は「順当」に失敗したわけですが・・・。

何とかその打撃から立ち直った私の、次に思い出深い話は、「昨晩、元総理の安倍さんと六本木の居酒屋で飲んだんだけど、何を持ってきたと思う? 獺祭の磨き二割三分の一升瓶だよ。」という勝谷さんからのメールでした。

勝谷さんにとっても安倍さんと獺祭はびっくり仰天でしょうが、当時浪人中とはいえ、山口県八番目の総理経験者が、ワインでもビールでもなく、そして灘・伏見・新潟などの有名銘柄でもなく、山口県内の酒、それも獺祭をそうやって使ってくれていたことはびっくりする話でした。もちろん、皆に「聞いて、聞いて」とその後、自慢しまくる話となりました。

安倍さんはその頃、最初の首相の座を辞さざるを得なくなり、雌伏の時でした。第一次安倍政権の時の勝谷さんの安倍叩きは猛烈で、山口県人としては辛いものがありましたが、この時、安倍さんという政治家の本質に触れたんでしょうね。この後、意見を異にすることもあったと思いますが、常に安倍応援団として勝谷さんはあることになります。

次の思い出と言えば、兵庫県知事選への勝谷さんの立候補。「まいったなぁ…」というのが最初の感想でした。とにかく商売をする者にとって、選挙とか政治にかかわるというのはマイナスにしかなりません。そのうえ、山田錦しか使わない酒蔵として、その主産地の兵庫県は大事な地域です。波風はおこしたくない。しかも、現職の井戸知事は、コメ余りの中でおこった山田錦不足、そしてその矛盾に目を向けようとしない、日本の農政と関係者の事なかれ主義に悩み、その壁を突き破ろうとあがいていた私の話に、少なくとも耳を傾けようとしてくれた知事だったんです。

でも、「恩知らず」と井戸さんに怒られても、勝谷さんを応援すると決めました。あまり選挙応援団としては役には立たなかったと思いますが・・・。しかし、勝谷さんはご存じのとおり、残念ながら67万票をとるも落選しました。もし彼が選挙に勝っていたら、個人的に近しいだけに、勝谷さんに獺祭に有利になるような話はしにくいし、困ったなぁと思っていたので、落選が確定した時、罰当たりにもほっとしたのを覚えています。

この選挙は勝谷さんにとって大きな曲がり角になった気がします。選挙は人を引きずり込むところがあって、あの大前研一さんだって都知事選敗退の後は少しおかしかったように見えたぐらいです。有権者たちの理屈ではない情念のようなものに、どんなに理性的に対峙しようとしても引きずり込まれるんだと思います。そして、それは一層の酒への傾斜となって表れたのではと思います。

そして、酒が原因で亡くなるという悲劇が生まれたんです。酒を造る人間として、酒を売ることじゃなくて幸せをお届けしたいと思う私にとっても、何とも言えない悲しい出来事でした。お客様にたくさん飲むことを誘導するんじゃなくて、美味しい酒のある人生を楽しんでもらう、そんな酒の在り方を模索していた私にとってはショックでした。

勝谷さんは彼が理想とした人生や社会に対して、繊細で真面目過ぎたんですね。しかも、悪いことに酒に強かった。

朝シャンという言葉があります。通常は朝からシャンプーの意味ですが、勝谷さんにとっては朝からシャンパンだった。しかし、最後までアルコールの影響なんてみじんも感じさせない知性の人でした。(その上、40才過ぎに始めたボクシングが仕上げたアスリート体型でした)

そして、勝谷さんという人は、一般的に評される「頭の良い人」だけじゃなくて、「義の人」でした。それも猛烈な。そしてその「義」を頭の良さが支えている。だから安倍さんがあれだけ第一時政権時代に叩かれた相手の勝谷さんに会おうとしたんだと思います。

あれが、ただの「政権をとにかく叩けば、視聴者が喜ぶ、新聞が売れる。社内で出世できる」というジャーナリストだったら安倍さんも会おうとしなかったと思います。猛烈に批判するんだけど、それは筋が通っている、それを安倍さんは分かっていたんですね。

そんな勝谷さんと付き合うのは、私のようなただの酒蔵のおっさんでも、緊張がありました。変なことをやれば馬鹿にされますから。周囲の人にも襟を正し、本当に自分は世のためにあるのか、正しく生きているのか、問い直させる力がある人でした。

「朝起きたら、酒蔵の前は(道ではなく)川だった」。今年7月の集中豪雨による私どもの被災時にも、目の前にノンストップで展開する被害に対処し、最速で復旧できたのも、勝谷さんのような人が周囲にいたおかげと思います。こういう人がいると心の支えとなるんですね。

こんな友人を持てたというのは幸せでした。
翌日の葬儀は残念ながら参列できなかったのですが、最後に獺祭で口を湿らせて勝谷さんは旅立ったそうです。もう一つ、焼香の順番を待つ間に飾られた生花を見ていて目が点になりました。私の名前が田原総一郎さんと蓮舫さんの間にある。順不同と書いてあったのに…、なんか、最後の最後まで勝谷さんに引き立ててもらいました。