「自分を首にした父を見返したい」、何とも刺激的なフレーズですね。BIZHINTというウェッブ系メディアの旭酒造の取材記事の題名です。もちろん、私の口から出た言葉を基にしています。親の悪口、それも他界した父をネタにしているんですから、罰当たりもいいところです。

もっともこの話はひとに聞かれたら結構あちこちでしているので、今更どうという言い訳もできず、「自分の父親のことをこんな風に言って罰当たり」の批判は甘んじて受けざるを得ません。

酒蔵を継ぐつもりで三年半勤めた大手メーカー「日本盛」を退職して旭酒造に入り二年、戦後の成長ピークを過ぎ、生き残り競争の激化し始めた地元の酒業界の中で、ただ真面目にコツコツやればいいという父の方針に、解決策は提示できないのに、ただ反発していた私は、ある日「明日から出社に及ばず」と首を宣告されました。

おそらく父は、翌日になれば私が知らん顔で出社してくるだろうと思っていたと思います。しかし、いくらお坊ちゃんとはいえ、私にも意地があります。翌日から出社することはありませんでした。

そして、御存じの方も多いと思いますが、紹介してくれる人があり石材卸し業を立ち上げることになったのです。それまでサラリーマンしか経験しておらず、酒蔵で働く以外の自分を想像したこともない私でしたが、首と言われた衝撃が反対にその時の私を支えてくれました。石材業は意地があるからその気でやりましたし、それなりに順調に発展しました。

実はこの出来事は田舎社会では格好の茶飲み話で、お陰様で私の地元社会における「自分たちと同じ世界に住む人間ではないという立ち位置」はこの時確立されたのです。「親の言うことは聞かず、しかし田舎でよくあるように、親の収入に依存して遊んでいるわけではなくそれなりに仕事をしている」という地域の人たちにとっては一種の価値観の混乱を引き起こしたのです。ただの無為徒食の遊び人だった方がもうちょっと普通に地域社会に受け入れられたと思います。

つまり、その時から私は地域にとって異邦人になったわけです(注)。

とにかく、「出社に及ばず」の言葉以降、私自身の業界への見方(あんなに営業努力をしても売れないのは根本的に別の原因がある)や、自身の事業の業績が伸びたことによる自信など、自分が大きく変わるきっかけとなりました。そして、後年、父の死後、酒蔵の後を継いだ時、この「父に首にされた」という体験は私の「ともすれば折れそうな心」の支えになりました。地域一番の負け組酒蔵で将来も見えなかった時期に、数々の失敗にもめげず、前に進むことができた、原動力だったと思います。

と、ここで、当然の疑問。はたして、父に首にされなくて、父が私の意見を受け入れてくれたら今があるか? 私が社長になる前の10年間の旭酒造の落ち込みはなかったか?

当然のことですが・・・、そんなことあるわけ・・・、ない!!! ない!!! ない!!! じゃないですか。大手の酒蔵に三年ちょっと勤めていて、業界を知ったつもりにはなっていますが、ただの自意識過剰の若僧ですよ。そんなアホに勤まるほど簡単じゃないですね。父も分かっていたと思います。

冷静にシュミレーションしてみますと、まず、首を宣告された頃の旭酒造も業界も、確かに引き潮傾向ではありましたが、その後と比べると、それなりにまだ元気で、言うほどの危機ではなかったと思います。

そうすると、当然私もそこまでの危機感は抱かないはずです。現状の問題の微修正や弥縫策に終始したのではないか。すると、根本的な改革はできませんから、いつの間にかゆでガエルのような状態になって一丁上がり、となっていた気がします。

その意味では、首になって外から酒造業界や地元の地域社会を眺めることができたのは良かったし、受け継いだ時、旭酒造が、相当ひどい状況になっていたこともよかったんです。しかも、アホな新任社長はその中であがいて失敗ばかり繰り返し、さらに泥沼にはまっていきました。そして、その失敗に対処しなくては生きていけない状況に落ち込んでしまいました。それが良かったんですね。つまり、変革するしか生き残る道がなかったんです。

こんなバカな社長で、父の時代から勤めてくれていた当時の社員たちには苦労ばかり掛けましたけど、おかげで今日の獺祭が生まれたんです。それでも、そのバカな社長についてきてくれたOさんやMさんNさんに感謝したいと思います。

(注)この場合の地域とは山口県東部とか岩国全域とかではなく、もう少し小さい地域と思ってください。

酒蔵の社長になって苦闘中、尊敬する地域の先輩から「あんたの父は(町会議員と森林組合長をしていました)、敵もいたけど味方もいた。しかしあんたは(地域の人から見た時)「あっ、そんな男がいたな」ぐらいの存在になっている。もっと地域との関わり方を考えた方が良い」と注意されました。まさに、その通りで言い返す言葉はありませんでした。

しかし、このことが県外市場開拓にとって切れの良さになり、反対に地元密着が成功の秘訣の地ビールに地元が冷ややかなのに進出して、そのあたりがネックになり、結局撤退する、という失敗につながりました。世の中はすべて、大きな流れに沿わなければいけないけど、感情というものを無視しては思うようにいかないということですね。