▼杜氏のいない酒づくりその2

なぜ、杜氏に依存しない酒造りを選択したかを前回のメルマガで書かせていただいたわけですが、じゃあ、どうしたのか。どういうことがおこったのか。

洗米担当が20歳、ビール製造責任者と兼任の蒸米担当が31歳、麹担当が26歳、仕込み担当が22歳という平均年齢24歳の、前代未聞というぐらいの若いスタッフが造る酒です。

事件が起こらないのが不思議なぐらい。

結論を言いますと、若い連中に酒を造らせますと・・・、そりゃー優れてます。生活のための労働がまだそれほど年齢的に必要無いからあたり前というところも勿論ありますけど、それ以上に第2ベビー・ブーマー世代は、良い意味で生まれたときから銀のスプーンをくわえていますから、良いものとか美味しいものが理解できるんですよね。

だからその辺が彼らなりに理解できると、一生懸命やります。

だけど、困ったことがあります。

それはお片付けです。

壊滅的なほどできない。

笑っちゃったのは、どうしても蔵の中に洗滌水が溜まってしまうとこがあって、狭いし洗い難いところなんでみんな嫌がるんですけど、若い連中に「ここがきれいであることが良い酒のできる秘けつ。必ずしも十分条件じゃないけど必要条件であることは確かだからね」と説明しましたら、半日かけて一番若いM君がきれいにしてくれました。

「イヤー、良くきれいにしたな」って褒めたんですけど、その日全部の作業が終わって、そこへいって見たら、バケツもモップも掃除道具は置きっぱなしなんですよね。

これには笑っちゃうというか何というか・・・・・。何というんでしょうね・・・。

小学校の先生のような気分になるときがあります。

これでも日頃、うちの女房に「早くしなさいと子供にいつもいってると、それが子供の独創性をスポイルするんだ」とか「そんなに子供をガミガミ叱ると個性をつぶしてしまう」とか御立派なことを言ってたんですが・・・・・。

ところで、杜氏のいない酒造りを選択した以上、それによって酒が良くならなければいけないわけです。

では実際の作業上・技術上でどんな問題があったのか。一番大きな問題は、休みがないということです。

夜も明けない冬の早朝から作業が始まり、日曜祭日もない。
その過酷な労働の中に酒造りのロマンがあるようによく伝えられます。蔵人に訊くと、酒屋男になって以来、正月を家で過ごしたのは数えるほどとか、そんな話ばかり強調される。

私どもも、そのあたりを全く売りにしたことがないといえばうそになりますから、完全否定はできないんですが。

でも、少し待ってください。

ロマンは別にして、あの長い酒造期間、人間が緊張し続けることは不可能な話ですから、どうしてもいい加減になる。酒造りにたずさわるスタッフに超人的な努力を強いて、その犠牲の上によい酒を造る。こんなことが続くわけない。

これは否定する。

ただし、担当スタッフは、担当部所の結果に対しては責任を持つ。結果が悪ければ、担当スタッフの責任においてやり方を変える。あくまで普通の人間ができる範囲で。それでできなければ、私がやり方を変えなければいけない。やり方を変えることができなければ、私が交代しなければいけない。

それでも私が交代しなければ、酒蔵そのものが世の中から首になる。

というわけで、「あんまり頑張り過ぎないようにしよう」「結果は、評価は、お客様がだしてくれる。よくも悪くも。」という言葉を肝に命じて(?)計画を組みました。

まず、製造スケジュール。
日曜日はなければいけない。(休みがなければ続かない)朝は8時30分から。(5時からの酒造りは続かない)何より、スケジュールに余裕がないと、出来が悪いと気が付いたときに、変更することが物理的にできない。

そうすると、必然的に長い製造期間になる。
9月から翌春4月までになりますので、伝統的な寒造りとはいえないわけで抵抗のある向きもあるようでしたが、それは無視させていただきました。

技術的な面からいえば、横で見ていたとはいえ、実際の酒造りはみんな素人ですから、それを良いことに、徹底的な数値管理を導入しました(結構、経験者はこの辺に抵抗するんですよね)。

酒は酵素と酵母の2つの生物が造り出すわけです。要は生物ですから、最適の水分条件や温度条件がいるんですが、このあたりが案外いい加減なんですよね。

それでも酒んなっちゃうという経験を、刀自(とじ)といって家庭の主婦が酒を造っていた神代の頃から、つんできたのが悪い方に転がっているんですかね。

というか、手造りの時代はトップクラスの杜氏は別にして、大部分の酒造関係者にはそのあたりのシビアな感覚が理解できなかったんじゃないでしょうか。(ただ、杜氏の名誉のためにつけ加えますと、トップクラスは完璧にわかっていたようです)それでなければ、ここまで酒が進化しなかったと思いますので。

話は横にそれますけど、そのあたり鈍感であったがゆえに酒造りも機械化できると過信したんじゃないですかね。

醸造機械のエンジニアに話を聞くと、自信満々なんですが、そのあたりのシビアさと繊細さがわかってないのに暗澹とするときがあります。

吟醸酒を造るためには、その時点・時点で水分量で、泣き泣きで、1%以内、品温で0.2度以内の誤差に抑えることが必要ですが、機械では制御不可能、(NASAレベルは別の話ですよ。あくまで現状手に入る価格の機材で)、どうもよく聞いてみると放って置けば3%や3度程度の制御誤差が出るのは当たり前のようです。

その代り、大量に処理できることによって、一般の人には理解できない程度の品質の低下しか無い(?実際は気が付いているように思いますが)酒が低コストでできると考えているようです。

最も、これだけの誤差があっても満足できる製品になるようなシステムを作り上げるのが機械文明ですし、これができた業種から大企業が生まれたんですが。

このあたり、うちはビールも造っていますので、ビールを見るとそのあたりがよく理解できます。
ビールはさすが西洋文明の酒だけあって、原料や醗酵状態の現状がどうあれ、強制的に適当な温度にコントロールしても、ちゃんと良い製品になるようにシステム的になっています。

どうも日本酒はそういうシステムになっていないのです。微妙なコントロールをしないと良い酒にならないようです。

これはどちらが優れているという問題ではないと思いますが、日本酒は少なくとも大量生産には向いていないような気がします。

このあたり、戦後、灘・伏見の主産地の大メーカーが大量生産を目指して大型機械を導入した生産設備を造りながら、結局ビールの後塵を日本酒が拝してきた原因のような気がしてならないんですが。

どうもビールが得意とする土俵に日本酒メーカーが上がっちゃったんじゃ無いですかね。

と、ここまでくれば、私どもが何を切り口に、技術面における製造計画を組んだかおわかりと思います。というわけで、ホームページに載せているごとく、洗米は手洗いで、麹は特殊な育成用の箱を作って箱でチャレンジしました。

ですから、これは手造りにこだわったからじゃなしに、獺祭で一番下のランクの獺祭純米吟醸50も鑑評会の出品酒など大吟醸と同様の厳密なコントロールをしたい。それを素人の手で。という目標から出たわけです。

もし、そのレベルで機械が使えれば、手抜きの大好きな旭酒造のことですから、すぐ使いたい。ぜひ、使いたいんですが。

こんな形で今年の私どもの杜氏のいない酒造りは完了しました。これ以上ほっとくと、どこまで細かな技術論に入っていくかわかりませんので、一応終わりにしたいと思います。